ホーム  > X-plus >  ライフコラム

この記事を印刷する この記事を送る はてなブックマークに追加する
テキストリンクコードを取得する

産業翻訳の愉しみ

2008年04月01日作成 

高尾道靖

翻訳といっても対象分野はさまざまですが、コンピューターを対象にした産業翻訳には、デジタル的なシロモノをアナログ的なシロモノで包み込もうという、きわめて野心的な世界があります。その世界の奥深さと、その奥深さに日々打ちのめされる翻訳者の悪あがきと愉しみを、ちょっと覗いてみませんか?

コンピューターの世界はデジタルです。そもそも英語のデジタル(digital)の語源は「指」であり、ちょうど一つ一つのものを指で数えるように、すべてを個々の点としてとらえていきます。一方、翻訳の世界はアナログです。すべてを個々の点としてとらえるような(たとえば、英語と日本語の単語レベルに1対1の対応関係を設定し、個々の単語を機械的に置き換えていくような)翻訳は、翻訳として成り立ちません。英語のアナログ(analogue)が比例を意味するギリシャ語に由来していることからも明らかなとおり、翻訳では文章を全体として(一連の流れとして)とらえ、それを全体として(一連の流れとして)移し替えていくことを目指します。

このようにデジタルとアナログの調和を目指そうという世界に困難が伴わないはずがありません。その難しさをもう少し現実的に考えてみると、たとえば元々技術者だった人が翻訳の世界に足を踏み入れた場合は、日本語の表現力、文章力が課題になることが少なくありません。一方、文章力はあっても技術者としての経験のない人が産業翻訳を志す場合は、技術的な内容を理解できないまま翻訳してしまう、というレベルをなかなか脱することができない、という困った状況が生じがちです。

こうした課題は、何も産業翻訳の世界に限ったことではありません。たとえば、年功序列の賃金体系を維持してきた企業が成果主義に基づく賃金体系を導入しようとする場合も、これと似たような産みの苦しみを味わうことが多いのではないでしょうか。

そこで問題になるのは、デジタル的なシロモノとアナログ的なシロモノをどう調和させるか、ということです。1)デジタルとアナログを単に並列させるのか、2)デジタルの中にアナログを押し込むのか、3)デジタルをアナログで包み込むのか。これは、きわめて根本的な問いかけです。

そんなことを筆者がもやもや考えていたときに、ふと目にしたのが、我が家のかわいいペット(インコ)です(ちなみに名前は「ペー子」といいます)。実は、普段から思っていたことですが、このインコのような機能を備えたロボットをこのインコのように「かわいく」作るなんて、たぶん100年たっても200年たっても(もしかしたら永久に!)不可能なのではないでしょうか。「そうだ! 考えようによっては、DNAのデジタル情報が、小鳥のインコというアナログの形に変換されている、とは言えないだろうか!」というわけです。そう思えると、我が家の裏山の林も空に浮かぶ雲も、要はデジタルの精密なメカニズムがアナログの姿かたちで包み込まれているように見えてきました。そこにあるのは、むき出しの技術ではなく、きわめて美しく芸術的ですらある自然の世界です。

デジタルをアナログで包み込む。これがいわゆる「自然の摂理」から導き出せる理想なのではないでしょうか。といっても、事はそれほど簡単ではありません。現実に、そんなに美しい翻訳など、筆者はいまだかつて成し得たためしがありません。一連の工程という流れの中の一つの歯車として、納期に間に合うように作業をこなしていく、というのが、ほとんどの場合の現実です。もっとも、技術関連の「書籍」の翻訳に携わるときは、より「手作り」感のある、ぬくもりのある仕事ができます。少々作業負荷が大きくても、筆者などはその種の仕事に嬉々として取り組み、時には鬼のごとくに根を詰めて働きます。「デジタルをアナログで包み込む」という野心的な試みに、途方もないやりがいを感じるからなのでしょう。

しかも、産業翻訳の世界では在宅という作業形態が一般的です。電話とインターネットがつながればどこに住んでもかまわない、というのは大きな利点です。筆者自身は、首都東京からはるか離れた田舎に住み、自然の豊かさに包まれながら、この仕事を続けています。頭が熱くなりすぎたら、ちょっと山道を散歩するもよし、ぶらっと近くの温泉に行くもよし。デジタルの思考に行き詰ったらすぐにアナログの自然で心を癒す。これも筆者にとっては、産業翻訳のひそかな愉しみです。



この記事と関連の高い記事

なし



ページトップへ戻る