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中国旅行記

2008年04月01日作成 

志賀 真理

「えー、このバス違うんじゃないの?」あたりの景色がだんだん暗くなっていくことに不安を感じ始めた私は、友人を軽く睨みつけた。つい20分ほど前に「たぶんこのバスだから」と請け負った彼女と、車窓から上海の摩天楼に見惚とれていたのもつかの間。私たちは次のバス停でそそくさと下車した。

「ここどこなのさ?」

「わかんなーい、でもなんとかなるよ」

「じゃあそっちがなんとかしてよ!」

2人とも上海は初めてで、しかも夜はとっくに更けているというのだ。

時は、2004年1月下旬。中国の旧正月も佳境に入っていた時期だった。遠くで爆竹の音が聞こえる。私たちは道端で地図を広げて、いかにも「観光客が道に迷っています」という雰囲気だったはずである。しかし、ここは中国。そして旧正月。しかも夜である。人通りは極端に少ないのだ。中国語が多少話せる友人は、バス停に通りかかったおじさんにすかさず話しかけた。おじさんは非常に親切に、かつ非常に長々とホテルまでの道を説明してくれた(ようだった)。が、当時の私の中国語レベルは低く、唯一理解できたのは、彼のこの最後の一言だった。「君たち、そんな大きな荷物を持ってホテルまで歩いていくのか?それは良くないなぁ。」

―とはいっても、他に方法はないのである。とにかく私たちは大きなトランクを引きずりながら歩き出した。程なくして、爆竹の音が急に大きくなってきた。気が付けば人通りがないのに、我々のすぐ脇で爆竹がパンパン鳴り始めるではないか!一体誰が?数秒後、爆竹が天から降ってくるのに気づいた。

「なにぃーーーっ?」

上海人。集合住宅の階上から下に爆竹を落としているのだ。我々はまさしくその下を通り抜けなくてはならなかった。歩道のアーケードの下で爆竹の音が鳴り止むのをまってから、次の屋根の下まで、トランクを引きずりながら命がけの猛ダッシュである。ちょうどアメリカとイラクの開戦が大きなニュースになっている時期で、わたしは戦火の中で日々暮らしていかなければならないイラクの人たちに、初めてリアルな同情を覚えた。ふと振り返れば、友人が後ろのアーケードの際で立ち往生している。

「いや~ん、こわいよぉ~、死ぬぅ~」

私は心の中で叫んだ。

「もともと誰のせいなのよ?」

「ハイ!いまダッシュ!」友人を励ましながらなんとか“爆竹危険地帯”を無事切り抜けることができた。後から私たちはその夜の出来事を「上海の夜を駆け抜けろ!事件」と命名し、今でも懐かしく思い出すことがある。
数日後に彼女と別れ、私は上海で落ち合った別の友人たちと合流し、夜行列車で北京に向かった。

北京。その歴史は確かに重かった。北京在住のアメリカ人夫婦と知り合いになり、彼らが胡同にある北京ダックの店に案内してくれた。その道中、私はまるでタイムスリップしたかのような錯覚に陥った。薄暗い石造りの家屋に、人々がひっそりと暮らしている。何気なく踏みしめているそのさりげない裏道にさえ、何百年の歴史があるのだ。「このあたりも北京オリンピックの開発でどんどん取り壊されているんだ。今から行く店もたぶんなくなるだろう。」

その北京オリンピックがいよいよ今年の夏に迫っている。あの店はどうなったのだろうか?あの場所で慎ましく暮らしていた人たちはどこに移り住んだのか?国家の威信をかけて開催されるこの大会の華やかさの影に、どれほどの喪失が埋もれているのか。「北京オリンピック」という言葉を聞く度に、すでに失われたであろうあの空間を、わたしは思い出すのである。





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